もう直ぐ古稀

どんな年になるかな

序章 エウレカよりウレルカ

肱雲

紀元前三世紀のシラクサで、アルキメデスは風呂に浸かった瞬間、湯が縁から溢れるのを見て跳び上がり、裸のまま街へ走り出して叫んだという。エウレカ、エウレカ――見つけたぞ、見つけたぞ。

 二千二百年後の伊予の国、大洲の朝風呂で、七十歳を目前にした一人の売れない作家が、湯にプカリと浮かびながら、別の四文字を呟いた。

 ウレルカ。

 売れるか、である。

 断っておくが、これはただの駄洒落ではない。いや、駄洒落ではあるのだが、ただの、ではない。日本の文芸は万葉の昔から、「松」に「待つ」を掛け、「あかし」に「明石」を掛けて、千三百年かけて掛詞という正式な武器を磨いてきた。駄洒落と掛詞の違いは何か。笑わせて終わるか、意味を二重に運ぶか、それだけである。ほんで「エウレカよりウレルカ」は、間違いなく後者だとワシは思うとる。なぜなら、この四文字には、物を書く人間の二千年来の本音が、綺麗に畳み込まれとるからだ。

 アルキメデスは真理を見つけて裸で走った。結構な話である。じゃが、現代の物書きは、真理を見つけた後、風呂の中でもう一つの問いに沈むのだ。――見つけたはええが、これ、ウレルカ?

 閃きと勘定。発見と商売。エウレカだけの書き手は自己満足の湯に浮かんだまま茹で上がり、ウレルカだけの書き手は魂を勘定に沈めて溺れる。両方の間で浮力を取るのが、売文業という稼業の水深である。

 ついでに言えば、アルキメデスがあの日、風呂で何を考えとったかを思い出してほしい。王様の注文である。この王冠は本物の金か、混ぜ物か、壊さずに見分けよ――つまりあの浮力の大発見は、最初から「冠の真贋」を見分ける仕事やったのだ。物書きにとっての冠とは何か。名前である。書いた本は売れるか。ほんで、その前に、この名前は本物か。エウレカの原点には、最初からウレルカの問いが埋まっとった。二千二百年後の湯船でワシがそれを掘り当てたのは、偶々ではない――と言いたいところじゃが、正直、偶々である。偶々を必然の顔で語るのが物書きの芸なので、ここは大目に見てもらいたい。

 さて、名乗りが遅れた。

 ワシは伊予の大洲でペンを執る、村田治夫という物書きである。俳号のようなもう一つの名を肱雲(こううん)という。肱川の肱に、雲。この夏、七月二十七日に七十歳、古希を迎える。ほんで、KindleというAmazonの電子書棚に、これまで百十三冊の本を出航させてきた。百十四冊目も、既に艤装を終えて港で待っとる。

 自画像を、もう少しだけ描いておく。住まいは肱川の流れる城下町で、灰色の雑種犬と暮らしとる。名をチポという。ワシの一日は、だいたい決まっとる。朝風呂か朝の茶で頭の火を入れ、午前に書き、昼からも書き、夕方にチポと土手を歩く。土手の黄昏は、白でも黒でもない、ええ塩梅の灰色をしとる。ワシはこの灰色を眺める時間に、その日書いた分の検品をする。チポは検品をせん。チポは、ワシが売れとる作家か売れとらん作家か、一度も気にしたことがない。ウレルカという問いの圏外に住んどる、この家の唯一の住人である。羨ましいとは思わん。犬には犬の、ワシにはワシの土俵がある。

 書くものは、何でも書く。長編ミステリー、四千字のショートショート、時事の評論、核シェルターの警世本、言葉遊びの実録。世間の物書きは畑を決めて耕すもんらしいが、ワシの畑は、頭に湧いたもんが作物である。畑が広いのやない。柵を作る手間を惜しんだだけである。ほんで、この柵の無さが、百十三冊という物量の正体でもある。

 百十三冊。この数字を聞いて、大抵の人は二度反応する。一度目は「ほう、多作ですな」と感心し、二度目は、ワシの名前を検索してみて、首を傾げる。――出てこんのである。百十三冊の棚は、Amazonの倉庫の奥には確かに並んどるのに、世間の海図には、村田治夫も肱雲も、ほとんど載っとらん。書いた。出した。並んどる。じゃが、ウレとらん。

イッパイいっぱいあるネ~

今年はドンナ歳になるかなぁ~